本『イメージ、それでもなお』

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真

すべてのイメージ行為は、現実の不可能な描写からもぎ取られるものである。とりわけ芸術家たちは、明白な経験として知っている——人間による人間の破壊に直面したことのある者なら誰でも——表象不可能に屈服することを拒む。だから彼らは連作を、すべてに抗してのモンタージュを制作するのだ。・・・あらゆる方向から表象不可能なものに挑みかかり、純粋な沈黙以外の何ものかを導き出そうとする。

今日では、ヨーロッパ・ユダヤ人の虐殺についてのこの憑きものを扱う映画的手法が、少なくともふたつ存在する。クロード・ランズマンは。『ショアー』において、顔、証言、風景、それ自体を、未踏の中心へと立ち返らせるモンタージュの一様態を作り上げた。求心的モンタージュ、緩やかさなの称揚。それは映画が続く九時間半の時間を掘り下げる一種の通奏低音である。一方でジャン=リュック・ゴダールは、『映画史』において、資料、引用、様々な映画からの抜粋を、かつてない広がりへと吹き散らすモンタージュの一様態を作り上げた。遠心的モンタージュ、速さの称揚。それは映画が続く四時間半の時間を散乱させる大フーガである。ここで作動しているのはふたつの異なる美学、ふたつのモンタージュの手法である。だがそれは同時に、これらの映画のなかで形作られたイメージと歴史の関係についての、ふたつの倫理でもある。・・・ゴダールとランズマンはふたりとも、ショアーがわれわれにイメージとの関係の再考を迫るものだと考えており、この点では両者いずれもまったく正しい。ランズマンは、どんなイメージもこの歴史を「語る」ことはできないと考え、だからこそ彼は倦むことなく証人たちの言葉をフィルムに収める。ゴダールのほうは、あらゆるイメージがそれについてしかわれわれに「話さ」なくなったと考え(しかも「それについて話す」というのは、「それを語る」ということではない)、だからこそ彼は倦むことなく、この問題を手がかりとしながら、われわれの視覚文化全体を再訪する。

映画におけるモンタージュとは、何よりもまず諸々の差異の呈示を引き受けるものではないだろうか。つまり見ることのできないものは、組み立てる[編集する]ことによって、できることならばいくつかの視覚的モナド——切り離された、不完全な——の間の差異を考えさせ、全体を見ることは不可能なままのそれ自体、すべてとしてアクセスすることはできないままのそれ自体を、すべてに抗して認識するための方法としなければならない。

とても素晴らしい本だった。近いうちにまとめを。